主観と客観

評価には、主観的評価と客観的評価がある。主観的評価の軸は、「好き-嫌い」で表現することができ、客観的評価の軸は、「良い-悪い」で表現することができる。とかいうのは、「味が良い」とかをかんがえるとすぐ破綻する仮定なのだが、まあ、そういうのは放置して、ここではそういうものとしようではないか。

例えば、「納豆」についての主観的評価は「味が好き」とか「においが嫌い」とかであり、それについて他人がどうこういう問題ではない。客観的評価は、例えば「健康に良い」とか「ねばねばで扱いづらい」とかであり、個人がどう思おうが変化はないものである。

とりあえず、そういう主観的評価と客観的評価があるとする。これらの関係について考えてみたい。ときに、人間というものはこの二種の異なる性質の評価軸を混同してしまいがちである。例えば、あるレコードに人気があるかどうかということと、そのレコードが音楽的・芸術的に優れているかどうか、ということは、とりあえず関係のないものとしてとらえる必要があり、「音楽的にはクズだが人気がある」こともあれば「音楽的にすばらしいし人気がある」のである。

8時だヨ!全員集合」というテレビ番組を好きな人がいたとする。社会では、「8時だヨ!全員集合は良い番組だ」だの、「8時だヨ!全員集合は悪い番組だ」だのと、侃侃諤諤の議論がなされているとする。このとき、個人の主観的評価と社会の客観的評価には、基本的にはなにも関係はない。個人にとって好きなもんは好きだから、「8時だヨ!全員集合」を見るわけで、社会における客観的評価が「悪い」一色になって、PTAからなるべく見ないようにというプリントが配布されたところで、ちゃんちゃらおかしいのである。

というようなことを、某国の首相は、自身が自国某所の某宗教施設に行った事に対する、社会の反応に対して思っているのではないか、と思う今日この頃であった。