裁判の準備で最も大切なこと

某所で、『「神の不在を信じる」○か×か?』という質問に出会った。こんなどうでも良い質問には適当に答えてやればいいのだが、なかなか面白い質問なのでいろいろと考えてみた。この質問に対する態度は、大きく2つに分類することができる。「○」か「×」ではない。「質問に答える」か「質問に答えない」かである。質問に答えると言うことは、何かを信じるということである。そこで信じるものが「神の存在」だろうが「神の不在」だろうが、そこに本質的な違いはない。何かを信じるという態度を取ることができるかどうか、というところにこそ違いがある。

「人生に意味はあるか」というような質問にも同じようなことが言える。死後の行き先のために善行を積むことも、無意味な人生に絶望して発狂するのも、本質的に違いはない。「ものの善悪」についても同じ。

何かを信じることに足を踏み入れた人と、そこに足を踏み入れることができずにいる人とは、そもそも存在する舞台が違う。信じている人から信じることができない人を見る目は、「あぁ、なんてかわいそうな人なんだ」というものであり、信じることができない人から信じている人を見る目は、「あぁ、あっちの世界に行っちゃったか」というものである。両者が話し合いをしたとすると、とりあえず、話はかみ合わない。が、最終的に勝つのは何かを信じている方である、というか、そっちはほぼ負けない。はた目からみて負けていたとしても、本人としては負けたつもりはない。

何かを信じている人どうしが対立した場合にはじめてまともな戦いが起こる。怖いので近寄らないようにしよう。どうせ結論は出ないし対立が解消することもない。何しろ信じちゃってるのだから。たいていは関わったら疲れるだけだが、時には傍観者として眺めることが面白いこともある。

社会で生きて行くにあたっては、第三者が決定を下す場合がある。このとき問題となるのは、自分が信じていることと、他人が信じていることとが、どういう関係にあるかということである。

あなたが刑事なり民事なりで告訴されたとき、もしくは、逆に訴える側であっても、まず真っ先にすべきなのは裁判官が何を信じているかということを調べることである。あらゆる手を使って調べたら、今度はあなたがそれを信じるのだ。可能であれば態度で示すのだ。論理など、適当に言いつくろうための手段にすぎない。裁判官がこたつみかん教の信者なら、手のひらが黄色い方を勝ちにするに違いないのである。